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「悪がないと成り立たない善」よりも「美しさ」をめざそう

ボイストレーナーの浜渦です。
いきなりの、善悪論。
トレーナー風情が、と思われるかもしれませんが、これから少しずつ書いて行こうとしております、芸術・表現には欠かせないと考えております共感と、他人と自分の囲いをを取り払い、
自分を他人として見ることに始まる、
自分への客観視についての概論としてもお読みくだされば幸いです。


自分が善人と疑わない人に必要なのは、
「悪」の存在ということでしょうか。
つまり自分が善であるのは「悪ではない」からであるという、まるで積極性に欠ける善が多いのではないでしょうか?

「悪いことをしていない」イコール善であれば、
それは「悪がないと成り立たない善」ではないか?
と、私は疑います。

そして、それを悪と規定している存在は何かを考えずに自分の善に満足しているのはもっとも害悪なのかもしれないのではないか?

ルールを破っても素晴らしいと思える人間は皆さんの周りにもいるでしょう。
ルールを守っても、およそ善人と思えない人もいるでしょう。例えば、

「ちゃんと並びなさいよ!!!」
などと、鬼の形相で叫ぶ。

…言っていることは正しいし、ルールを他人にも守らせたいのもわかるが、その態度がおよそ善人とは思えない、いわば「正義人」は多くはないか?
それは正しくても果たして美しいでしょうか…?

そもそも、それが正しさは誰が規定したのか?
それが正しく見える人もそうでない人もいる。
真実はそのひとの見え方だけある。
私は哲学はほとんどわかりませんが、ニーチェのいうところのパースペクティブ(遠近法)とでも言いましょうか。

とはいえ、ルールを規定しないと世の中はめちゃくちゃになるでしょうし、
それを否定することはできません。
しかし、芸術はそもそも表現を通して美しくさを誇るものではないでしょうか?

美しいと言っても、綺麗とか上手いとは全く別のものです。
美しくても下手、上手いが美しくない。
また、その逆もあるわけです。
ひとの姿が美しくなくなればなくなるほど、
つまり「自他を超えた自由な表現ができなければできなくなるほど」
ルールによる善悪の規定が力を持ってしまう、、、

それは私たち人間にとって進化なのか?
少なくとも表現の上では退化ではないか?

何をどこまでがやっても許されるか?
そればかりが注目されます。
また、結局誰が悪くて、この鬱憤を晴らすのか、、、そればかりが…。
しかし、芸術が目指すものは、
(岡本太郎さんの言葉を借りれば「芸術=人生」です)
美しく罵り、
美しく怒り、
美しく慈しみ、
美しくは愚痴を言い、
美しくルールを誇る…
そういったものではないでしょうか?

これは音楽や絵をやっていてもただうまさを追っているひともいれば、
一般の勤め人の方の中にも、その仕事の中で美しく表現しているひともいる。
当然後者の方が知らず知らずに芸術家なわけです。
芸術は、表現は、そして共感は、善悪を超えた人間としての美しさにある。

それを声で表そうとする、
畏れ多くも、素晴らしいこと。
こんな話はレッスンでは滅多にしませんよ…タブン(笑)
でも、私はそれを生徒さんともに、声と呼吸を通して考えたい。
もちろん、自由な表現を手に入れていただきたいからです。

…先日の生徒さんの発表会ライブを聴き、それが概ね理想に向かっていることを感じ取れるこの現実に、
私は幾重にも感謝せずにはおられないのです。

…あまりこんなことを書くと、
危ない奴とか、めんどくさい奴、と思われるかもしれませんが、
レッスンはいたって楽しく、そして変なスピリチュアル的なものや、もちろんツボなんか売ったり、数ページで高額のテキスト何か売りませんので、ご案内くださいね(笑) にほんブログ村 音楽ブログ ヴォーカルへ

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